2009年7月21日火曜日

ルーブ・ゴールドバーグ・マシン

フィルムのどこから見はじめても差し支えがないという自由さ/どんな断片からも全体が組みあがるような完璧さ/どんな断片にも慎重にアイデンティティが与えられ/どんな断片とも明確に差異化されていながら/それだけとってみても意図した意味で機能しないような断片の過剰な集合の為に/ひとつひとつのアイデンティティが相対的に消失していくような全体/辻褄は常に事後的に現れ/支離滅裂にも全体がある/ミクロスケールでの混沌さがマクロスケールで無視できてしまうような滑らかさになり/あるいは冗長で退屈な時間がどこまで伸長していくのか分からないと思える瞬間がまさに伸長されていく/
見慣れた日用品の連鎖が観者を一定距離放置し続けることによって/フィルムのこちら側と向こう側が並行しているということ


Designs on Jerry
オチあり


The Way Things Go
オチなし



>>Equilibres























>>風が吹けば桶屋が儲かる
  1. 大風で土ぼこりが立つ
  2. 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
  3. 盲人は三味線を買う(当時、三味線は盲人が弾いた)
  4. 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
  5. ネコが減ればネズミが増える
  6. ネズミは箱を囓る
  7. 箱の需要が増え箱屋が儲かる

>>カンバセイション・ピース

どこで切っても話が終わりうる。

002


縫うようにアプローチ
インテリアとエクステリア

001


飛び出した箱の上からアプローチ

映画とは夜景である


「ナイトバス(95年)」の製作を通して、彼は、”都市”はその名のなかにあるのと同じく、夜、あるいは夜景の中にさえ存在することを知っていた。だが、 いま、眼前の香港島の夜景はその先の考えを彼に宿した―「自分がつくりたかった映画は闇の中に浮かび上がる光としての都市をめぐる映画であり、さらに言う なら、映画とは夜景である」と。
ついで曽根は、「時間につきまとわれない映画としての、時間についての彫刻」をつくることを考え、こうして「香港映画」は彫刻となることが決まった。
(ダブル・リバー島への旅/曽根裕展 カタログp4-6、西原
珉) ナイトバス、、曽根裕、1995年

真っ暗な空間に、光の彫刻として浮かび上がる映画と都市の、この比喩はとても好きだ。映画が、スクリーンに映し出された実態的な厚みのない空想の像である ことから、さまざまに編集された現実の都市空間へと想像を着地させる比喩だと思う。時間につきまとわれない完璧な映画としての建築、何度観ても結末が違う完璧な映画としての建築、どこから観はじめても物語が分かる完璧な映画としての建築、への補助線。